竹茂楼のあゆみ

美濃吉のはじまり

享保年間(1716〜1736年)、八代将軍吉宗の時代に、美濃の国大垣から京都に移り、現在の三条京阪の付近である大和大路三条下がった所に、腰掛茶屋を開いたのが「美濃吉」の始まりと伝えられています。
川魚料理屋としての美濃吉:その後、川魚生洲料理屋としての形をととのえていき、江戸時代後期には京都所司代から認可を受けた川魚生洲八軒の内の一軒として川魚を主体とする料理屋を営むようになりました。美濃吉は、特に鴨川沿いにあったこともあって、代々川魚料理を扱い、その川魚料理が美濃吉の名物になっていきました。川魚料理に使う魚としては、鮎、鯉、鮒をはじめ鰉(ひがい:これは、明治天皇が非常に好まれた魚です)、諸子(もろこ)、ごり、サギシラズ(明治時代にできた鉄道唱歌の中に京都の名物の一つとして鴨川のサギシラズが歌われています)、さらには鰻、どじょう、すっぽんなどがありました。最初のころは、美濃から出てきて代々吉兵衛といっていたようで、それが詰まって「美濃吉」となったのは、明治になってからのことのようです。
京都でも有数の川魚料理店へ:明治時代になると、京都の旅行案内誌などが数多く出版されるようになり、そうした案内誌に美濃吉の名前も掲載されました。明治22年には、京都日出新聞社(現在の京都新聞)が業種別の人気投票をして、その中で川魚料理の第1位に美濃吉が掲載されました。このことから当時、美濃吉が川魚料理店としては相当の評価を頂いていたのがわかります。明治から大正のころは、まだ電話がありません。三条大橋のあたりも今とは違う静けさでした。先斗町から声の大きな女の子が出てきて「みのきっつぁ〜ん」と叫びます。こちらからも声の大きな従業員が「へぇ〜え」と返事して、注文を聞きます。当時はそうしたのんびりとした時代でした。
新しいことに積極的に取り組む姿勢:昭和3年の天皇の即位式には内外から多くの来賓のお客さまが来るということで、美濃吉をはじめ京都の多くの料理屋では改築、増改築が行われました。この増改築で、食器などの道具も新たに揃え、料亭としての形を築き上げました。また、調理場の近代化に着手したり、料亭の味のテイクアウトも当時から手がけたり、昭和7年に月1回発行の『味覚時報』(※)という新聞を刊行するなど新しいことに積極的に取り組んでいきました。しかし、戦争が激しくなってきたため、美濃吉は昭和18年に店を閉め、戦後25年に再開するまでしばらく中断することになりました。
※味覚時報当代主人の2代前にあたる佐竹吉兵衛が、昭和初期に「一般家庭の皆様に京料理とは何か、また料理方法や味覚に関する全てのことを普及していきたい」との想いで発刊した季刊誌です。現在では、『味暦』として年4回発行しております。
『味暦』についてはこちら→http://www.minokichi.co.jp/ajikoyomi/index.html
美濃吉の再スタート:昭和18年、戦争が激しくなってきたため、店を閉めました。縄手三条を下ったところにあった本店の土地も建物も使用していた食器類もすべて売却し、そられを売ったお金を資金にして佐竹吉兵衛は給食事業にのりだしました。しかし、終戦後はしだいに時世の変化に残され、昭和24年には解散せざるをえなくなり、昭和25年、その昔、在原業平の別邸があったといわれる南禅寺畔粟田口(現在地)にささやかながら料理屋として美濃吉は再開しました。
美濃吉の多店化のはじまり:昭和33年、阪神百貨店のお好み食堂に美濃吉を出店させました。当時、ビルもそれほどなく、ましてやビルの中に有名な食堂が出店しているということはほとんどなかっただけに、この企画は成功し、その後ののれん食堂街ブームの先駆けとなりました。美濃吉も繁盛し、昭和38年には京都の大丸百貨店、39年には東京の新宿京王百貨店、46年には東京の池袋東武百貨店にそれぞれ和風レストラン風の京料理店を展開しました。このことが、美濃吉の多店化のスタートとなりました。
料亭としての形を築き上げる:昭和42年から44年にかけ、本店を増改築しました。中央の一部の建物だけを高級料理を提供する場として残し、新たに3階建ての民芸風の建物と、富山県の越中五箇山から二百数十年たった合掌造りを移築した建物を建て、和風レストラン風の造りにして一般のお客さまを対象にした営業形態に転換しました。京風弁当を品書きにだしたり価格帯を考慮したりなど、手軽な値段で気軽に京料理が食べられるように取り組んだ試みで、お客さまに好評を博しました。しかし、昭和55年あたりから、本店のお客さまの数が減ってきました。世の中が成熟してくるに伴い、日本料理においても値段の安さだけでなく、多少値段が高くても質の高いもの、あるいは本物が求められるようになってきました。本店だけではなく店全体の底上げをはかる全社運動を進めていきました。料理だけではなくて、美術工芸品をきちんと揃えたり、食器もいいものを揃え直したりと、店にかかわるもの全てを考え直しました。また、調理技術のグレードアップのために、しっかりした教育カリキュラムをつくり、高い調理技術を身につけさせるようにしました。 このような取り組みが奏功して、お客さまの美濃吉に対する支持がまた高まってきました。そういう手応えを感じたところで、22億円にもなる投資をし、本店の大改築を行いました。
京都美濃吉本店から、京懐石美濃吉本店竹茂楼へ:平成4年4月、京都美濃吉本店は、日本建築の重鎮今里(杉山)隆氏の設計による数寄屋造りの本館と合掌造りの別館からなる「京懐石美濃吉本店竹茂楼」として生まれ変わりました。近江藩士の出身で、書家として名高く、貴族院議員でもあった厳谷一六氏は、何かと美濃吉をご贔屓いただき、明治25年のある夜、享保年間からつづく佐竹家が経営する料亭が、未来永劫に繁栄するようにと願いをこめて、「竹茂楼」と揮亳してくれました。ちょうど厳谷翁からいただいた「竹茂楼」の揮亳から百年目にあたり、名前も「竹茂楼」と改め、その名に因み竹が植えられました。 苔むす竹林の庭には小川が流れて、静かな山里を感じさせる小さな滝や湧き水が設けられ、それぞれの座敷からの四季折々の眺めは、やすらぎの景観です。平成6年度には、京都市景観賞を受賞いたしました。竹茂楼では、京都という風土の中で、京料理を基盤にして総合的に日本文化をつくり提供していこうと考えております。